4章 三菱商事時代(1981−2002年):
 

●三菱商事には21年間勤めた。
 21年間というと人生の半分近い期間であるが、
 あっという間に過ぎた感がある。この会社には
 複雑な感情を持っている。というのは、自分の
 今の能力の半分以上はここで培われたもので
 感謝をしているが、組織の問題を機に会社を
 辞めるに至ったからだ。


●三菱商事というのは、世間一般では
 エクセレントカンパニーである。
 しかし、私が在籍していた部門の問題は厳しい
 ものがあり、それに言及する度に「負け犬の
 遠吠え」のように捉えられたのは本当に
 辛かった。
 私は自分がどうとかではなく、組織の問題に
 黙っていては一方的なものになってしまう
 ことと、後輩達にまた同じことが起こることを
 考えたから、そのような事実を言及したので
 ある。


●しかし、私がこのような話をすると、仲の良かった同僚も殆どが潮が引くように去って行った。
 そして誰も助けようとはしなかった。日本的な組織というのは、本当に厳しいものであることを、
 身に沁みて感じた。ただ、その時に唯一励ましてくれたのは高校時代からの親友の弁護士で
 あった。
 会社を辞めて独立したい旨を伝えると、十分やって行ける能力があるので自信を持つことと、
 今は経営者になるための試練を与えられていることをアドバイスしてくれた。
 これには本当に感謝と涙を禁じ得なかった。


●1981年に入社した私は、自動車部門に配属され、以後約21年間を一貫して
 国際自動車ビジネスに従事することとなる。
 三菱商事の自動車部門は、同社の中でもエネルギー部門と合わせてドル箱の商権を
 持っていた。
 主に関係自動車メーカーの東南アジア部門で川上(生産)から川下(販売)までおさえて、
 トヨタなどと互角の勝負を挑んでいた。
 中でも、インドネシアマーケットは三菱が伝統的に1位のシェアをおさえて、トヨタに一目を
 置かせる程の実績を残していた。


●そのような中で、私もインドネシア大学に留学して駐在の準備を整えて、弱冠28歳という
 若さで花形マーケットでの駐在員となるチャンスを得た。
 私は「インドネシアと日本の架橋となる」覚悟で文字通り身体を張って仕事をした。


●元々マーケティング志向であったが、最初は生産部門の仕事を任されることになった。
 思わぬ展開であったが、ここでメーカーの年配の駐在員と仕事をして、異なる出自・環境の
 人々との仕事のやり方を徹底的に学んだ。
 又、生産とは段取り・リードタイムの勝負であることなど、思わぬ収穫に日々驚きの連続で
 あった。
 これは本当にいい経験をさせて貰ったと感謝している。


●その後、販売部門に移り、ここで正に自分の最も得意とする分野を経験することとなった。
 どう動くか分からないマーケットに対して、販売の予測を立てて、広告宣伝・販売促進なども
 打ちながら、マーケットに挑んで行く。
 これこそが自分の真骨頂だと感じた。
 皆で総力を挙げて構築した戦略・施策が功を奏して、在庫が煙のように消えて行く醍醐味を
 味わうことができた。


●三菱は伝統的にマーケットシェア1位に君臨していたが、商品企画に失敗したことなどで、
 私が赴任した1987年にはシェア4位までその地位を落としていたが、私が帰国する時には
 2位まで回復し、帰国後ほどなくしてトヨタから1位を奪還した。


●私が最も心血を注いだのは「現地化」の問題である。それまで、日本人主体の経営に、
 これでは総合力で負けると考えた私は、インドネシアのマーケットを最もよく知るインドネシアの
 人々に権限を委譲し、彼らが主体となって経営する手法に変えて行った。
 現地化というのは、非常に難しい経営判断であるが、私の中では迷いはなかった。
 それが結果として、マーケットシェア1位を奪還する重要なポイントとなったと思う。


●ただ、残念なことが起こった。それは、或る販売店が投機に手を出して倒産をしてしまった
 ことだ。
 もちろん販売担当としての管理不行き届きを責められれば、責任の一端無しとはしない。
 しかし、独立したオーナー販売店のそこまでをコントロールすることは実際問題として難しい。
 いずれにしても、その時これが私の人生に大きな災いをもたらそうとは予想だにしなかった。


●三菱商事というのは、先述の通りエクセレントカンパニーだ。従って、ミスを最も嫌う体質だ。
 結論としては、私1人が責任を負わされた形となった。
 ここから全ての歯車が狂って来ていたように思う。当時、同期の中でもトップクラスの評価を
 受けて、しかも誰もが認める形で実績を上げて駐在を終えたにも拘らず、急に昇進が止まり
 始めたのである。


●帰国後は、担当マーケットは中東やベトナムなどの、花形とはとても言えない、
 むしろ、商売の少ない部署にたらい回しにされた。
 後から振り返ってみれば、その理由は明白であったが、誰も何も語らない状況で、
 全ては自分の力が足りないせいだとばかり思い込み、精神的に落ち込んだ。
 しかし、同時に自分が真の実力を未だ備えていないことも分かってはいた。


●いずれにせよ、そのような悪循環に陥ったことが分かった時点で、会社を辞めて起業しようと
 決心した。
 あれだけ会社に貢献したのに、このような不遇の人生を歩まねばならない。
 ならば、自分でコントロールできる人生を選ぼうと。
 ビジネスパートナーであるメーカーの経営内容もよくない。
 これは一生を共にするものではないと判断した。


●但し、2人の息子はお金のかかる私学に通っている。無理はしないで、自分に不足している
 ものをしっかり勉強してから辞めても遅くは無い。
 そしてその後、多摩大・グロービス他で経営をしっかり学び、2002年に三菱商事を辞めた。
 メーカーのその後はあまり多くを語らなくてもいいだろう。
 企業の存続さえ危ぶまれている状態である。
 私としては、本当に本質を見抜いて、未知の世界へ踏み出した形となったものだが、
 神様がそのように仕向けてくれたのかなとも思う。