3章 大学までの生い立ち(1959-1981年):
 

●津崎盛久は、1959年に津崎耐平・俊子
 の4人の娘・息子の長男として福岡市で
 生まれた。
 父親はサラリーマンから脱サラをして、
 呉服・博多織販売業を起業。
 この父からは起業家魂を授かる。
 母は昭和の初期にバイオリンを習う程の
 裕福な家庭に生まれたが、戦争で全てを
 失った苦労人。
 父の9人兄弟の家族の中に嫁いで、常に
 明るさを失わず、当時では最もリベラルな
 考え方で4人の子供たちを育てて行った。
 この母からは、オープンで人を分け隔て
 しない生き方を学んだ。

●高校は福岡県立の修猷館高校で質実剛健を理念に文武両道を学ぶ。
 ここでの生活が私の人生の柱を決めたと思う。
 皆、勉強のできる精鋭ばかりであったが、運動会・文化祭などを通して、勉強以外でも
 人間として真に大事なことを学んだ。


●高校3年の文化祭時には、クラスの誰かが「クラシックカーを作ろう」と提案し、クラス幹事の
 自分は大学受験前に大変なことになったと思った。
 しかし、持ち前のチャレンジ精神と志高い友人達とで、一から取り組むこととなった。
 先ずは友人の叔父が発明家であったので、話を聞くことから初めて、遂には2ヶ月ほどで皆で
 力を合わせて、本当に本物と変わらぬようなクラシックカーを作り上げた。


●これには担任の先生もびっくり。さすがにエンジン付きのものではなかったが、手押しで
 動くものを作り上げた。
 タイヤなどはゴム部分をどこからか拾って来て、パイプなどと繋げて駆動系を作り上げた。
 あまりの出来の良さに博物館に寄贈・展示することとなった位だが、この頃から
 「無から何かを成し遂げる」才能が育って行ったような気がする。
 日本一ともその内容を誇る運動会では、副ブロック長を務めた。


●そして、1977年に念願の一橋大学経済学部に入学する。
 しかし、授業などは面白くなかった。聴講するのみの学問や、現実に適用できない経済学
 などに疑問を持っていたからだ。
 又、ハードな受験勉強の反動があったことも否めない。
 いずれにせよ、人間は学問だけではだめで、総合力を身に付けねばとのあせりがあった。


●そのような中で、或るテニスクラブと出会った。このクラブはできたばかりであったが、
 「テニスのみならず、色んなことに挑戦する」という面白い理念を持ったクラブであった。
 そして、そこにいる仲間たちが、本当に人間味のある幅の広い大らかさを持ち、大変素晴らし
 かった。
 このクラブも自分に与えた影響は大きい。
 3年の時には、私がリーダーとなって学園祭でディスコ(現在でいうクラブ)を運営してこれが
 当たり、クラブのみんなの飲み代を捻出したりして、早くも20歳で経営の能力を見せ
 初めていた。
 そのテニスクラブで出会ったのが、後に妻となる芦名真理子であった。
 妻真理子は医系家族に生まれたが、津田塾大学英文科に属し、何よりも底抜けに
 明るい天真爛漫さが大きな魅力であった。


●ゼミは国際経済分野で「世界の小島」と言われていた小島ゼミにはったりで何とか潜り込んだ。
 ゼミテンは皆優秀な連中で、私1人が落ちこぼれであった。
 今でも、ゼミの連中は私がMBAを取ったなど信じられないみたいだ。
 そんな中で、小島教授の世界観など勉強以外の面で、常に世界と勝負することが必要で
 あることを、感覚的に学んで行った。
 本当は、大学を卒業したら就職をせずに起業したかった。
 しかし、真理子との結婚を望んでいたので、親を説得するには就職をせざるを得ず、
 世界でビジネスをやれる三菱商事に入社した。